舟底の記憶

瀬戸内国際芸術祭2013~ / 宇野港に恒久設置・恒久制作 / 岡山県玉野市


人々はさまざまな道具を使い、暮らし、消費する。生活を営む土地の風土によって必要な道具は異なり、進化し、固有の歴史と記憶を孕んでいくものだ。
しかしその寿命は短い。機能が欠けた時点で、道具は道具でなくなるからだ。例えば自動車。車輪がひとつでもパンクすれば、それは乗り物としての使命を果たせなくなる。例えば技術を駆使して精密に組まれたコンピュータ。ちょっとしたホコリで使い物にならなくなる。堅牢な素材とされる鉄ですら、例外無く寿命は訪れる。錆びる、曲がる、穴が空く…頑丈な金物が用途を果たせなくなる要因はいくらでもある。
そういった脆さのなかでも、鉄が鉄であるということは不変だ。曲がっても、穴が空いても、溶かしても、それは鉄のままであり続ける。錆びて風化しても消えたわけではない。どこかに鉄分として存在し続ける。このような視点からモノを捉えると、そこには素材(=自然物)としての強度があることに気付く。
ここ瀬戸内海の島々には、この土地ならではの道具たちが多く存在し、それはそのまま土地の風景として個性を放っている。その中で、役目を終えた「元・道具」たちに着目した。これらは人工物なのか、それともすでに自然物なのだろうか?ここから作品制作が始まる。

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まずは島々を訪れて「元・道具」たちをたくさん集め、熱して叩いて機能を排す。そしてこの作業で産まれた「ただの鉄=自然物」を、巨大なプロペラや錨に付着させていく。近付いて見ると、そこにはさまざまな道具のシルエットがあたかも化石のように存在している。道具として使われてきた人の記憶、街の記憶もまた、不変であると気付かされる。そして支持体となる巨大なプロペラや錨には、長い航海の果てに数えきれないほどの「海の記憶、世界の記憶」がこびり付いている。外の記憶、この地に訪れる旅人を連想させる。


迎える者と訪れる者、双方の記憶を宿した彫刻が産まれる。
設置後は恒久的に現地でワークショップを催し、現地で集めてきた元・道具たちを参加者に叩いてもらう。叩かれた鉄たちは宇野港の彫刻へ取り付けられ、そのヴォリュームを増幅させていく。島への来訪者が制作プロセスに関わることで、鑑賞者が関係者となり、「現在の記憶」が追加される事になる。
願わくば、賑わいの時期が去った後も島の方々の手で育てられ、長く愛され続けて欲しい。常に呼吸をし続ける鉄という素材は、時間の経過と共に表情を変えていくだろう。


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